誰かに投げかけた言葉は、必ずいつか自分に帰ってくる。

家の近くに交番がある。外を出歩くと必ず通る交番がある。

その入り口付近に毎日の事故数・死者数が張り出されている、きっといろいろな人に当事者意識を持って欲しいと思っての取り組みだろう。

その張り紙の、死者数が「0」じゃない日は、とても心が痛い。

たとえそれが「1」だったとしても、その「1」というたった1文字に1人の人生の全てが入ってしまっているような気がして、だからこそ他人事じゃないような気がして。

きっと、身近な人の「死」を経験すればするほど、自分の「死」を意識すればするほど、それに対する共感性も大きくなっていくのかもしれない。

テラハに出演していた木村花さんの訃報が流れてきた。

22歳だった。僕と年齢が近く、弟と同い年だった。

彼女に対して強い想い入れがあったわけでもないし熱烈なファンだったわけでもないけれど、それでも自分のことのように、身近な人が亡くなったかのように心が痛んだ。

なんだか、すべてが嫌になった。

彼女を誹謗中傷した人も、その人を誹謗中傷する人も、正義感や怒りを露わにする人も、こうやって記事などにして言葉にしてしまう自分自身でさえも。

人は「言われなくても自分が一番わかってること」を他人から言われると、つらい。

なかなかおもちゃを片付けない子どもを叱ったとき、「今からやろうと思ってたのに」と返すように。

何がつらいかって、自分が一番そのことをわかっているのだから、それを他人から言われてしまうことや、言われたことを「否定」できないのがつらい。

一方で他人から受けた戒めや誹謗中傷に傷つかない人は、それを否定できるのだと思う。「自分はそうは思わない」から。揺るぎない、あるいは根拠のない自信があるから。

でも多くの人はそうじゃない。死んでしまいたいと思ったことがあり、自分の気持ち悪さに吐き気を覚え、誰にも見せない涙を流し、もういっそ消えてしまいたいと、どんな人の人生にもそういう時間がきっとあるはずで。

僕はそうだった。中学で陰湿な虐めを受けてからずっと自分に自信が持てない、今も。

だから誰かが、たとえ自分とは関係のない人でさえも、他人から受けた言葉を否定できず、そんな自分自身を否定し、苦しんでいるのを見ると胸が痛くて仕方がない。

誰かに投げかけた言葉は、必ずいつか自分に帰ってくる。

誰かを応援できる人は誰かに応援され、誰かを否定する人は誰かに否定され、誰かを認められる人は誰かに認めてもらえる。

そう思っているから、僕は誰も否定できないし否定したくない。

自分が一番否定されたくないから、誰かに否定されることがつらいから、誰かが否定されるのを見るのがつらいから。

自分を否定するのは自分だけでいい。それだけでもう、たくさんつらいんだ。

みんなそうじゃないのかな、わからない。

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